悪魔の頭脳と呼ばれ歴史上最も天才であった言われるノイマンです。ゲーム理論を作り、コンピューターを作り、原子爆弾の研究開発もしていたノイマンの性格や逸話を紹介していきます。
この記事でわかること
- ノイマンという人物
- ノイマンの歴史と経歴
- ノイマンの具体的な逸話
ノイマンとは?
ジョンフォイ・ノイマンは20世紀に最も影響を与えた数学者です。IQは300あり歴史上トップ。
アインシュタインなど天才学者が集まる「プリンストン高等研究所」内でもノイマンは桁違いの天才でした。アインシュタインが本当の天才と認めたのもノイマンのみです。
プリンストン高等研究所について下記を先に見てください。
>>【日本人もいる!】天才が集まるプリンストン高等研究所とは何か?
彼は生涯で150以上の論文を発表しています。
コンピューターの産みの親でもあり、原子爆弾の産みの親でもあり、悪魔の頭脳の持ち主と呼ばれています。
先に下記のIQランキングを見ておくとノイマンがどれだけ逸脱した天才だったのがよくわかるので読んでみてください。
>>【IQ世界ランキングトップ8人】IQが一番高い人間は誰?
ノイマンの経歴
ジョン・フォン・ノイマンの経歴は、その超人的な才能を示す逸話で満ちています。
- 1903年:ハンガリーのブダペストで誕生。幼少期から驚異的な数学的才能を示し、4歳でドイツ語を流暢に話し、6歳で8桁の暗算を行った。
- 1909年:複数の外国語を話し、8桁までの暗算をマスター。
- 1910年:7歳で微分積分を理解。数学者としての才能を明確に示し始める。
- 1914年:アウグスト信仰の福音学校に入学。教師が彼の天才性を発見し、ブダペスト大学の数学者に紹介。
- 1920年:最初の数学論文「ある種の最小多項式の零点と超越直径について」を執筆。ドイツの数学雑誌に掲載される。
- 1921年:首席で中等教育を卒業するも、体育の成績は振るわず。ブダペスト大学に進学。
- 1926年:ブダペスト大学で数学の博士号を取得。同時期に量子力学に関する研究を開始。
- 1927年:最年少でベルリン大学の講師に就任。数学の基礎理論を築く「作用素環論」を発表。
- 1930年:アメリカに移住し、プリンストン高等研究所の所員となる。同研究所の初代メンバーとして、アインシュタインらと共に活躍。
- 1932年:「量子力学の数学的基礎」を出版。量子力学の理論を数学的に厳密に構築する。
- 1937年:アメリカ陸軍に志願するが不採用。その後、マンハッタン計画に参加し、原子爆弾の開発に貢献。
- 1941年:国防研究協議会の顧問になる。爆発の威力を増す研究をしていた。第二次世界大戦でこの技術が爆弾に応用されている。
- 1944年:「ゲーム理論と経済行動」を出版。経済学に革命をもたらす基礎理論を構築。
- 1949年:初のノイマン型コンピューターを開発。現代のデジタルコンピューターの原型となる設計を提案。
- 1952年:数値予報を可能にするコンピューターを完成させ気象学にも貢献。
- 1954年:米国原子力委員会の会長に就任。同年、がんにより51歳で逝去。
さらに、ノイマンのIQや関連情報に興味がある方は、以下の記事もご覧ください。
ノイマンのすごい逸話
- 電話帳を見ただけで、記載された数字の総和を瞬時に計算できた。
- 6歳8桁の暗算を行い、7か国語を話せるようになった。
- 他の研究者が「不可能」と言った問題を数分で解いてみせた。
- 幼少期に7カ国後話せた
- 卓上電卓よりも暗算が早く、正確だった。
- 壁の模様を見つめながら、深い考察を行う習慣があった。
- ノーベル経済学賞を受賞するジョン・ナッシュの「ナッシュの均衡」を学生時代にくだらないことと言ってた。ナッシュ自身も評価に値しない研究と言っている。
- アインシュタインやハイゼンベルクが、ノイマンを「真の天才」と認めていた。
- 興味のないことは覚えられず、住居の食器の位置や前日に会った人の名前を忘れてしまうこともあった。
- コンピューターを完成させた際、「私の次に計算が早いやつができた」と喜んでいた。
- 女性の足を眺めるのが好きで、秘書にいたずらをしていたというエピソードもある。
- 原子爆弾を落とすときに東京ではなく京都に落とそうと提案していた。
- あまりに天才だったため死後「ノイマンは火星人である」と言われていた
ノイマンの逸脱した天才ですが人間はもっと不思議な特殊能力を持っている人もいるので、下記も読んでみてくださいね。
ジョンフォイ・ノイマンのまとめ
ノイマンは原子爆弾の開発に関わっていて「悪魔の頭脳」とも呼ばれていますが、ノイマンは「我々が今生きている世界に責任を持つ必要はない」と主張しています。
しかしその一方で「私が今作っている物は怪物である。世界を変えるような衝撃を与えるが科学者として科学で可能であるならば、私がやり遂げなければならない。これはまだ始まりだ。」とも言っています。